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関電の全原発が停まる。 [くらしと安全(交通事故その他)]

 もうすぐ、関電管内の全原発が停まりますね。

 この記事を読まれている方にも、色んな考え方、立場の方がいらっしゃると思います。

 しかし、それを超えて、ここ何十年か関電管内で原発が一基も動いていないという瞬間はなかったけれど、そういう状態が訪れるということそのものは、特別なことです。もちろん、大地震・原発事故、深刻な被害のせいでこうなったのですから、とても残念なことです。
 
 
 ただ、何事も、頭の中で想像するのと、実際にそうなっているのとは大違いですね。

 「もし原発が停まってしまったら」というのと「現に停まっている」のと。

 「現に停まっている」を前提に、「再び動かすのか」「もう動かさないのか」「できるだけ動かさないのか」を、自分のこととして国民みんなで考えていきたい、という風に思います。

 放射能の問題は、その影響がどこまでか本当のところ分かっていない、というところが重要だと私は思います。
 余りな言葉で危険を煽り立てるような週刊誌の見出しは、「本当に、人の安全という視点で記事を作っているのか?」と逆に疑ってしまいます。
 ですが、綺麗な言葉で「正しく恐れよう」というコピーにも、はっきり言って、色んな人が共存して生きてる中で、仮に「『正しく恐れる』態度はこの態度」というスタイルが存在したとしても、それをあらゆる人に要求するのは現実問題として不可能でしょう、といわざるを得ません。
 私は、「人心を混乱」させているのは、本質的には、放射能の危険をあおる言説などではなく、放射能について本当のところよく分かっていないことが多い、という要素でしょう。

 それが証拠に、いわゆる教養レベルが高いとされている人が、「1msv/年程度の被曝ならば、くよくよせずに、(抵抗力を失わないため)楽天的に暮らしておればよい」という説明を、一応受け容れたとしましょう。「頭」では。
 でも、その人の家族に妊婦や乳児がいたとしたとき、もし、その人に被曝の心配がない地域に引っ越すだけの条件(お金など)が十分にあったら、「1msv/年程度の被曝ならば、くよくよせずに、楽天的に暮らしておればよい、という説明は分かったけれど、やっぱり、気になることは気になるから、引越(疎開)しておこう」となるものではないでしょうか。「心」はそう動いても不思議ではないでしょう。

 そして、本当のところ、上の人の「頭」と「心」のどっちが正しいかは??です。また、被曝量がその人にとって「1msv/年」という前提自体だって、色んな要素が絡まり合い、本当のところ怪しいかも知れません。

 きっと、生きているというのは、放射能問題に限らず、「よく分かっていないこと」の上に成り立っているのだと思います。
 安全か、危険かも。インフルエンザのマスクの効果一つ取ったって、考え方は人それぞれ。
 それに、例えば、私はスキーなど大好きですが、結構危ないスポーツです。
 だから、他のリスクと比べて放射能問題が特別ではない。
 これ自体は、論理的に正しそうです。

 でも、現実に、人は、放射能問題は特別に考えている、それはどういうこと?

 他のリスク要因と比較したとき、放射能リスクは、人の心からして、受け容れられていない、とも言えるのではないか、と思います。
 
 もし、「電気を享受してきたのに、リスクは受け容れないなんておかしいじゃないか」などと理屈で言われても、心が「受け容れない」ものをどうしようもないのではないか、という気がします。

 じゃ、将来、「放射能リスクを、この範囲では受け容れよう」という人々の合意ができるのでしょうか?「えらいさん」の世界での合意ではなく、庶民1人1人というレベルでの合意という意味で。
 私は、難しいと思います。でも、それが無理なら…、という気がします。


 原発問題は、絶対の答えがある問題ではなく、人々が決める問題だと思います。

 が、私としては、

・ もし、仮に日本で事故の危険が1000年に1度(今回の大津波?)の確率である、というのならば、私の一生を仮に80年と見積もっても、「12.5分の1」の確率で国の原発事故による被害に影響される、というのだから、それは受け容れられない。怖がりな?私にとって、この確率は高すぎる。

・ 原発をフル稼働させなければならないほどのスピードでの便利さの追及は、私はいらない。幸せのポイントは、きっと違うところにある、という気がするから。

・ 原発に人が関係する以上、私が避けたいと思う放射能被曝を誰かが(作業する人などが)受け容れている。そのことを、今まで余り気にしなかったけれど、一旦気になってしまったので、もう気にしないことには出来ない。

・ 核廃棄物の処理について道筋がちゃんとできていないのでは?

・ 脱原発で心配なのは、国際的経済競争に対して日本が立ちおくれてしまい、私たちの周りが貧しくなり、幸せでなくなること。でも、この言説は本当?仮に、当たっている部分があるとしても、これはより本質的には「脱原発」だけでそうなるというものではないのでは?もっと大きな要素によって決まる部分が大きい問題では?

・ そもそも原発は安いのか?(今の時点で見積もって)

という風に今のところ思い、「脱原発」を望むし、きっと、スピードはどうなるにせよ日本はその方向に向かうだろうと思います。そのスピードが、次なる原発事故よりも速くあるように、と思います。
 
 私は、科学の歩みそのものは愛しています。純粋にわくわくする気持ちもあります。だから、核「融合」炉(今の原子炉よりも遙かに大きなエネルギーを生む可能性がある。但し、制御がもっと難しい。)だって、現実のものになったらいいなあ、という気持ちもあります。
 なので、それへの歩みも続けて欲しいと思っています。
 でも、1人1回しかない人生(命)との優先順位は間違ってはいけません。
 だから、危険のない範囲で、その歩みをすすめていってほしい。大学の実験炉等で、絶対周囲に危険が及ばない範囲でやってほしいです。実用化まで何百年かかってもいいですから。

 結局、イケイケドンドンの時代ははっきり終わり、これからは、もっと丁寧に、人の命や心と寄り添いながら色んなことを進めていく時代に入っていかなければならないのでしょう。(本当は、そのことを、私も含めこの国の割と多くの人が、心では大分前から感じていたのでは?)

 というようなことを、「原発が停まる」ニュースに思います。

後遺症・後遺障害って何でしょう? ~後遺障害診断書の作成などについて [くらしと安全(交通事故その他)]

 交通事故の例が多いのですが、スポーツ事故や、傷害事件など、要するに人が怪我をしたということに関して、非常に大きな問題になるのが後遺症、後遺障害です。

 確かにそうで、骨折等のなかなか大変な怪我をした場合でも完全に治れば「後に残るような怪我がなくてよかったね。」といって、回復を喜ぶことが出来ます。

 しかし、後遺症、後遺障害が残るとなると、怪我をするのは一瞬ですが、その後の生活に大きく響きます。

 「後遺症」「後遺障害」という言葉は、判決などでもごっちゃになって使われることがありますが、一応、使い分けられることになっているようです。

(現時点のwikipediaより引用)

 後遺症(こういしょう)とは、病気・怪我など急性期症状が治癒した後も、機能障害などの症状が残ること。

 後遺障害(こういしょうがい)とは、傷害が治ったあとでも、身体に残っている障害を指す(自動車損害賠償保障法施行令(以下、施行令)第2条第2項の規定による)。
                                                    (引用終り)

 それで、怪我をして、一定期間治療して、これ以上は目立った回復をしないとして、後遺障害を診断することを「症状固定」と呼びます。

 損害賠償などの法律的解決をするのは、ともかくも、何らかの形で「解決」しなければならないということが前提にありますから、ここでいう「症状固定」というのも、「解決するための技術」の一つです。

 というのは、人の体ですから、「固定」なんてことは本当はありません。
 健康体であっても、常に動いています。(現に、私の喉は今、先週風邪をひいた後の症状から相当荒れていますが、キーボードを叩いている今の瞬間は、荒れている部分が徐々に治って行っている最中であるはずです。ですが、一方で、もしかしたら、私の眼は疲労によって幾分か機能が低下しつつある最中かもしれません。)

 というわけで、「症状固定」というのは、人間の体の状態が文字通り「固定」するわけでは決して無く、お医者さんに診断をしてもらい「後遺障害診断書」を書いてもらうこと、と考えた方がすっきり理解できます。

 
 じゃあ、「症状固定」といっても、お医者さんの判断とか、当事者の思惑とか、保険会社の圧力とか、諸々の事情によって、何とでも動くのではなないの?という疑問が湧いてきます。
 
 この疑問は、ある程度当たっています。

 基本的にはお医者さんの判断です。もっとも、「胸先三寸」だけで決まるわけではなく、「後遺障害診断書」があっても、後に裁判になって、例えば、裁判所が「症状固定の時期はもっと前である」と考えれば、お医者さんの判断通りにならない場合も中にはあります。

 
 損害賠償問題で、損害賠償金額の計算のもとになる「後遺障害」について説明しますと、交通事故でもその他の事故でも、基本的に労災の基準を参考に考えます。
(交通事故案件について、参考 神戸シーサイド法律事務所HP http://www.kobeseaside-lawoffice.com/koutuu/index.html

 「後遺障害」というのは、基本的に1~14級の14段階に分けられ、基準が決まっています。

厚生労働省HP
 http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken03/index.html


 交通事故の場合は、通常、裁判をするよりも前に、この基準にあてはまるかについて、自賠責事務所というのところが認定をします。


 基準というのは、もちろんないと困るのですが、杓子定規な面もあって、その基準にちょっとでもあてはまらないと「等級無し」ということになってしまうことがあります。
 
 「等級無し」となると、処理としては「後遺症無し」と同じことになります。

 人の体ですから、そういう後遺障害認定基準にきっちりあてはまらないけれど、でも確かに本人にとってはなかなか大変な後遺症が残っているということもあり得るのですが、「基準にあてはまらない」というのは血も涙もなく「後遺症ナシ」と同じ扱いを受ける恐れがあります。


 そこで、実際には、「後遺障害診断書」をお医者さんに書いてもらう際に、後の損害賠償のことを考えると、色々と注意しなければならないポイントがあります。

 例えば、

・ 事故等の後遺症で関節が不自由になった場合に、関節の動く角度を測定するわけですが、その測定値について数字の基準があるので、目分量でいい加減に測定されてその結果が後遺障害診断書に書かれてしまい、一旦「等級に該当しない」となると、そのあと後遺障害の認定を受けることが難しくなるということ。

とか

・ ちょっとした記載の仕方によって、症状が実際よりも軽いと誤解される場合があり、一旦誤解を招くとそれを訂正することが困難であること

などなどです。

 ですので、「診断書」というのは医師が自身の判断に忠実に書くのが本来ではあるのですが、実際には、「後遺障害診断書」に関しては、医師に作成を依頼する際に、弁護士が依頼者の状況を良く聴き取って、

・ 医師に、これこれこういう項目について漏れの無いように書いてもらって下さい。

・ こういう項目については、厳密に○○の検査をしたうえで、記入してもらって下さい。

等のチェックポイントを考えて、アドバイスをする必要があることが多いです。

 場合によって、医師と面談をして説明を聞いた上で、損害賠償実務上必要と思われる項目について弁護士が説明して後遺障害診断書を作成してもらう、ということも必要です。

 もちろん、「実際よりも、重い後遺障害があるように書いて下さい」なんてお願いをすることはできませんし、仮にしたとしても医師は自分自身の独立した判断で行動しますから、そんなことは実現不可能です。

 ですが、ちゃんと書くべき項目は何か?記載した内容について損害賠償実務ではどのような扱いがされるか?という重要なポイントについて、医師とも考えを一致させたうえで、患者さんが不当な誤解を受けないように記入して頂く、ということが非常に重要です。

 後遺障害の賠償となると、ある程度以上の重さのものは、一時にもらえる金額は数百万円以上になるなど「結構な額」のように一見思えるかもしれませんが、これは「一生、後遺症とつきあっていかなければならない代償」ですから、本当は幾らもらっても見合いません。

 なので、後遺症が残る案件については、(もちろん実務上可能な範囲で、ということですが、)出来るだけ悔いの無いようにしておくことが必要です。


 というわけで、「後遺障害」の認定、その損害賠償、というのは、本来固定するはずのない人間の体を「固定」したと一応みなして、色々の計算をするというのですから、ある種のフィクションを含んでいますが、実際の事案「解決」のために仕方ないフィクションである、と考えてやっていくしかない面があります。

 私たち法律家としては、

「解決」に必要な「フィクション」は、それはそれとして、上手く付き合い、利用しつつも、

それにとらわれず、

「症状固定」って言われても相変わらず痛くなったり治療を受けたらちょっとは良くなったり色々変化があるんだけどなぁ、という、「本当の本当」の実情があることをちゃんと重視しなければならない(あくまでも苦しんでいる人が少しは楽になる方向で)、と考えるべき、というのが私のスタンスです。

 この基本姿勢は大事に、来年以降もやっていきたいと思っています。



 

憲法市民集会「フクシマから考える暮らしの安全」 [くらしと安全(交通事故その他)]

 兵庫県弁護士会で11月12日に原発に関する集会をします。

http://www.hyogoben.or.jp/topics/pdf/111112kurashinoanzen.pdf

 京大原子炉研究所今中哲二助教や、井戸謙一弁護士(元裁判官、志賀原発二号機差し止め訴訟の裁判長)が来られます。

 私も、簡単ですが、原発問題に対する弁護士会の取り組みなどを紹介する基調報告をします。

 近畿方面のかた、是非ご参加下さい。 

原発事故・損害賠償マニュアル 日弁連編 日本加除出版(株) [くらしと安全(交通事故その他)]

 http://www.kajo.co.jp/book/40438000001.html 

 昨日、注文していたタイトルの本が届きました。

 神戸市に事務所がある私のところに、原発事故賠償の相談があるかどうかは分かりませんが、ともかくも、重要な、大変な問題です。

 ぱらぱらと読んでいるのですが、内容が濃いようです。

 「マニュアル」というタイトルがついていますが、単なる「マニュアル」ではなく、政府の指針をカバーしつつも、それを杓子定規に適用して答えを出すだけではなく、さらにぐっと踏み込んだ考え方まで解説されています。
 
 可能な限り被害の実態に寄り添い、万全の賠償を得られるように役立つように、というスタンスで書かれています。

 たとえば、野菜のいわゆる「風評被害」について、次のような問題について。

(引用)

Q77 A県産のホウレン草から暫定基準値を超える放射性物質が検出されたために、A県産の他の野菜(トマトなども)も売れなくなった。トマトからは暫定規制値を超える放射性物質は検出されていないが、損害賠償請求は可能か。

                                                     (引用終り)

 ここでいわゆる「風評被害」について問題となるわけですが、この本の解説は次の通り、

(引用)

 中間指針において指摘されるとおり、いわゆる風評被害という表現は、放射性物質等による危険がないのに消費者や取引先が危険性を心配して商品やサービスの購入・取引を回避する不安心理に起因する損害という意味で使われることもあるが、少なくとも本件事故においては、必ずしも科学的に明確でない放射性物質による汚染の危険を回避するための市場の拒絶反応による損害と考えるべきである

 この場合、風評被害は、ある種の実害という側面を持つものであり、合理性が認められる限り、広く損害賠償の対象として救済されるべきである。
                                            (引用終り)

という考え方から、平均的・一般的な人を基準として、このような事情があれば野菜であれば他の品目についても危険性を懸念し、敬遠したくなるのが無理のないことかどうか、という基準で判断し、

Q77の場合も、買い控え等により被った営業損害、就労不能等に伴う損害、検査費用について賠償請求が可能である

という回答をしています。


 「風評被害」という言葉が適切か?についてそもそも問題があるのだけれど、政府の中間指針でもこの言葉が使われているので無視は出来ない。
 でも、その被害の本体は「実害」という面をちゃんと持っているのだ、ということを押さえた上での解説がなされています。
 執筆者の方がここをきっちり押さえられて記述されていることは、実に行き届いたことだと感じます。


 この本が、役に立つことは間違いない。
 賠償を行う側(東京電力など)の方々にも是非熟読して頂き、肝心の所をよく分かって頂いた上で、どうか今回ばかりは「支払う側、受け取る側」の利害対立ということにとらわれずに、相手の立場への十分な配慮に基づいて、賠償実務に望んで頂きたい、と思いました。

 

高次脳機能障害に関する判決(判例時報2118号70頁) [くらしと安全(交通事故その他)]

 交通事故などの外傷で、頭部を強打した場合に、高次脳機能障害という後遺症が残ることがあります。
 
 一見、どういう後遺症があるのか分かりにくいのですが、記憶力や集中力や、物事を要領よくやる力や、人間関係を円滑に保つ力などが、事故前と比べて格段に落ちてしまい、生活の色んな場面で苦労するという、大変な問題です。

 この後遺症については、以前、高次脳機能障害のドキュメンタリー番組(私がちょこっと出ました)に関連して書いた日記 http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/2007-05-09 も参考にしていただければと思います。 

 私が担当した事件で、新しく判例雑誌に掲載されたものがあるので紹介します。


判例

 神戸地裁尼崎支部平成21年(ワ)1128号 平成23年5月13日判決

 事案の内容

 Xは、Y1の運転する軽貨物車の助手席に同乗中、Y2の運転する普通乗用自動車と衝突し、頭部外傷、頭蓋骨骨折等の傷害を負った。
 Xは、A病院等に入通院して治療を受けたが、①障害等級5級2号該当の高次脳機能障害、及び、②12級13号該当の醜状障害(外見の障害)を残し、併合4級の認定を受けた。
 Xは、事故当時は無職であったが就職に向けて資格試験を受験する等していたが、事故後は、後遺症の影響から、集中力や記憶力の低下や、情緒不安定、計画的行動遂行能力の低下等のため、また、意欲全般の低下のため、就職活動等が一切できなくなった。
 
 判決の概要
 
 後遺症による労働能力喪失率につき85%とする。


 村上による解説

 本件のポイントは、後遺症によって、Xさんがどれくらい労働能力を失ったと認められるか(「労働能力喪失率」は何%か)という点です。
 
 上に書いた、後遺症の等級というのは、「自賠責保険」の基準であり、重い方から1~14級まであります。

 Xさんの場合、2つの後遺症があって、「併合4級」ということです。4級の場合、一般的には「労働能力喪失率」は92%とされます。

 ただし、Xさんの後遺症の一つは、12級の醜状障害(外見の障害)であり、Xさんは男子であることもあり(このあたり、男女で区別するのはどうか、という異論もありますが)、一般的には、外見に障害があったからと言って(アイドルとかホストであるとか特殊な事情がない限り)労働能力には直接影響しないとされることが多いです。
 
 そうすると、このXさんの場合、もし、労働能力に直接影響するのが5級の高次脳機能障害の部分だけだと考えると、5級の「労働能力喪失率」は一般的に79%とされています。

 しかし、それでは、事故後、全く就職活動や就職に向けての勉強等さえ出来なくなってしまった状態のXさんが、100-79=21(%)の労働能力を有している(つまり、それは、21%分は働いて稼ぎを得ることが出来るという意味です。その部分は、賠償を受けられないことになる。)とされることになるが、それでよいのか?
 
 そこで、本件では、裁判官は、自賠責保険では、○級なら○○パーセント、という基準があるが、その基準によるだけではなく、実際のXさんの状態を判断して「85%」と認定したというわけです。
 
 これでも、実際働く見込みが立たない人に、「あなたは15%は働ける」ということにして、損害賠償額を減らしてよいのか、という点は残るのですが、いわゆる「モノサシ通り」の79%というよりは、Xさんが実際に苦労している状況を想像して汲み取って下さった判決である、と思います。

 
 この「高次脳機能障害」というのは、目に見えにくい後遺症であることは間違いなく、本人さんが苦労されている状況というのは、まさに、日常生活の一つ一つに現われてきます。
 ですので、裁判での証明というのも、「日常生活の一つ一つ」そのものを裁判官にわかってもらえるように、色々工夫してやらなければなりません(家族の協力も相当お願いしました)。

 
 この後遺症の方の置かれている状況について、私が、大変参考になると思っている資料は、

東京都 高次脳機能障害者実態調査 (平成20年)

http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2008/05/60i5f300.htm

です。

 これによれば、高次脳機能障害を有する方が、就労の面で相当苦労されていることが分かります。
 高次脳機能障害の度合いが比較的軽度な人でも、実際に就職し、その職場で仕事が続く状態にはなかなかならないことがデータで現われています。
 
「発症時に就労していた者は62.6%で、現在も就労している者は10.1%であった。また、現在就労していない者のうち、50.3%が就労を希望していた。 」

 実際には、9割の人は、就労が出来ていないというのです。

 これは、社会の体制という問題もあります。
 本来、裁判でたくさん賠償してもらえるよりも、高次脳機能障害を有していてもその人のペースで働ける場があるほうがよいに違いないので、そういう社会に一歩ずつでも近づいてゆくことが望まれます。

 裁判における活動の一つ一つは、あらゆる状況にある人に対して優しい社会へ近づくためのきっかけの一つを積み重ねているということだと思います。 

 それにしても、本当に「一歩一歩」です。ときに「半歩」くらいでも、「三歩進んで二歩下がる」ことがあっても、どれもプラスに捉え、それはそれでよしとして、前へ進むしかない、という思いを強くします。

日弁連 原子力発電所の再起動についての会長声明 [くらしと安全(交通事故その他)]

 日弁連が意見を出しています。

 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/110623_3.html

(本文)
 経済産業大臣による「原子力発電所の再起動について」と題する声明に対する会長声明去る6月18日、経済産業大臣は「原子力発電所の再起動について」と題する声明を発表し、福島第一原子力発電所の事故を踏まえて各電気事業者が「津波による全交流電源喪失を想定した緊急安全対策の実施により、炉心損傷等の発生防止に必要な安全性を確保していることを確認し」、また、「シビアアクシデントへの対応に関する措置が適切に実施されていることを確認した」として、各地の停止中の原子力発電所の一部について再起動を求めた。

しかしながら、この声明は、以下の理由から撤回すべきである。

第1に、未だ福島第一原子力発電所の事故は収束していない。すでに炉心が溶融し、圧力容器から漏れ出しており(「メルトスルー」)、今後どのように事故が変遷していくか全く予断を許さない。事故の原因・経過の調査はその緒についたばかりであり、事故の全体像及び詳細は未だ不明な点が多い。そもそも今回の事故原因が津波だけに起因するものか、地震そのものに起因する機器損傷が影響を与えているのかという最も基本的な事実関係についてさえ未だ現地調査ができないために解明されていない。にもかかわらず、上記声明は、津波と電源対策の強化だけで安全性が確保されたとしており客観的な事実に反している。

第2に、原子力安全委員会は、6月16日に、安全確保策の抜本的な見直しを図る必要があるとして、安全設計審査指針、耐震設計審査指針、防災指針の見直しを始めるとした。全国の原子力発電所の安全確保策の見直し策は、これから検討される段階であり、安全確保対策は未だ確立されていない。福島第一原子力発電所で発生した長時間の全交流電源喪失という事態は、これまでの安全設計上は考慮不要とされていたが、原子力安全委員会の班目委員長は「すぐさま改訂しなきゃいけないものと思っています」と述べている。上記のとおり今回の事故原因の解明も未だできておらず、この指針改訂に基づく安全性の確認もなされていない段階で、経済産業大臣が原子力発電所の再起動を求めることは、今回の原発事故の深刻な被害を顧みない、甚だしい安全軽視の姿勢であるといわざるをえない。この点、伊方原発最高裁判決(1992年10月29日)は、原発の安全審査の「具体的審査基準に不合理な点がある」場合には、原子炉の設置・運転が違法となる旨述べており、この最高裁判決からしても、安全審査基準の見直しをすることなく国が運転再開を認めることは許されない。

この声明に対しては、原発立地自治体の知事がこぞって反対又は疑問を呈しているが、地域住民の生命と安全に責任を有する者として当然の反応であるというべきである。また、最近のある世論調査では、国民の8割が原発の廃炉推進の意向を示している。このような知事の意見や世論に逆行してまで、原発再起動を強行すべきではない。

よって、経済産業大臣の声明は、直ちに撤回すべきである。


2011年(平成23年)6月23日

                          日本弁護士連合会
                          会長 宇都宮 健児
                                                        (引用終り)


 いつの時代でも、為政者の無能をなじることは割と簡単なことで、誰でもします。
 でも、私は、そういうことは本来あんまり好きじゃないです。(とは言っても、つい口に出てしまうことはしょっちゅうですが。気楽に言える立場なので無責任につい言っちゃうのですね。やっぱり。)
 
 私の思想信条と違う政党から出た首相であったとしても、その人が持っている真心があるなら、その点については出来るだけ信じたいし、良いことに活かして欲しいと思うのです。
 
 菅首相が、エネルギー政策の転換の問題に力を注いでいることについては、「延命策ではないか」「『歴史に名を残したい』欲」等色々なことが言われ、そりゃもしかしたらそうかも知れません。
 でも、色んな思惑が混じっているにしても、そういう不純なものだけではなくて、「自分がやめるまでに、明日の日本のために、何とか一筋の道筋をつけたい」という真摯な思いもあるのだろうと思います。
 
 もともと、不純と純なものが混じっているのが人間であり、人間の集合体である組織だって、多かれ少なかれそうではないかと思います。

 ならば、もしかして不純なものの中に混じっているとしても、その真摯な思いは活かして欲しいと思います。
 
 
 菅首相が、原発、エネルギー問題で将来への道筋をつけたい意思が本当なら、内閣で、しっかりと他の大臣と向き合って、粘り強く自分の意思を伝えて、足取りを確かにして、進めて欲しいと思います。

 浜岡のこととそれ以外のことなので、対象とする施設が違うわけですが、首相の「浜岡停止」、エネルギー政策転換の姿勢と海江田大臣の「再起動要請」の姿勢のギャップ、これでは、やっぱり困ります。首相の言っていることも、ほんまかいな、となってしまいます。

 日弁連会長の声明の指摘、もっともだと思います。今、安全だ、再稼働だ、と国が言うことへの疑問は大きいです。

 
 世間的にはやめろの大合唱かもしれませんが、私は、敢えて、菅首相に、あなたのもっている真摯な気持ちがあるのを信じます、それを確実な足取りでちゃんと活かして欲しい(やめるにしても、是非やっておきたいことがあるのなら)、とエールを送りたいです。

日弁連 エネルギー政策の根本的な転換に向けた意見書(2011.5.6) [くらしと安全(交通事故その他)]

 
 日弁連は、5月に、原子力発電所の段階的廃止を盛り込んだ意見書を出していますので紹介します。

 私は、内容を読んで、なるほどと納得できるものでしたし、この方向で自分も出来る努力をしたいと思いました。
 もう一つ踏み込むならば、資源を必要以上に贅沢に使うライフスタイルが果たして人間が本当に望む幸せに繋がっているか?という根本的な問いをもっと、というところくらいですが、このあたりは哲学的な部分なので、個人の論文ならともかく、日本弁護士連合会としての意見書に余り盛り込むのは馴染まないかもしれません。

 少しでも興味・関心がある方は、是非読んでみてください。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/110506.html

(冒頭だけ引用)
第1 意見の趣旨
当連合会は,エネルギー政策の抜本的な転換に向け,次のとおり意見を述べる。
1 持続可能性を基本原則とするエネルギー政策にすること。
2 原子力発電所については,新増設を停止し,既設のものは段階的に廃止する
こと。また,運転開始後30年を経過し老朽化したものや付近で巨大地震が発
生することが予見されているものについては運転を停止し,それ以外のものに
ついても,地震・津波に対する対策を直ちに点検し,安全性が確認できないも
のについては運転を停止すること。
3 石炭火力発電についても,新増設を停止すること。
4 再生可能エネルギーの推進を政策の中核に据えること。
5 エネルギー製造・供給事業の自由化を促進し,発電と送電を分離すること。
6 エネルギー消費を抑制するための実効的な制度を導入すること。
7 排出量取引制度等によってエネルギー供給の確実な低炭素化を図っていくこ
と。
8 エネルギー政策が多くの国民に開かれ,国民の積極的な参加を促すものとす
ること。
                                                     (引用終り)

もしも南方仁ならば [くらしと安全(交通事故その他)]

 人気のテレビドラマ「JIN」(現代の医師 南方仁が、ひょんなことから江戸時代にタイムスリップする。坂本龍馬と友達になり、暗殺されるのを防ごうとする。)を見ても、やはり原発事故のことが頭を離れません。

 過去にタイムスリップしたとして、何とか、福島第一原発の事故が起こらないように歴史を変えられないか、と。TVでしか現地の様子を知りませんが、想像するだけでも、本当にひどいことだと思います。

 かわぐちかいじ「ジパング」なども、似たコンセプトのタイムスリップマンガでした。これは現代の自衛隊が、第二次世界大戦中にタイムスリップするというものでした。たくさんの日本国民が亡くならなければならない運命を避けることができないか、というテーマ。

 
 現実に南方仁のようにタイムスリップすることはないでしょうが、例えば、

自分が南方仁のように未来からタイムスリップしてきた人間だと思って、未来に起こるさらなる原発事故による悲惨な被害を防げないか

と考えることは出来ます。誰でも出来ます。


 反原発・脱原発を「集団ヒステリー」と揶揄する向きもあるようです。

 が、現実が「ヒステリー」でどうになるものでもないことは、それ自体、もともと明らかです。
 
 福島第一原発の事故の処理、それから、もし他の原発を廃炉にするにしても、そのプロセスや後の管理、残された核燃料・核廃棄物の処理には、今まで以上に科学技術を尽くし、安全管理を尽くし続けることが必要です。
 それは「ヒステリー」や感情でどうになるものでもなく、人道とともにある科学的なものの見方で、色んな人が知恵を尽くし続けなければならないのですから。
 
 「電力を原子力に『依存』してきた。原子力をやめるなら何に『依存』してゆくのか?」という立論をする人がいます。
 私は、「電力を何かに『依存』しなければならない」考え方自体が間違っていると思います。
 これは、要するに依存症です。

 辞書によれば、「依存」とは「他に頼って存在、または生活すること。」です。

 人が生活する上でどれくらい電力を使うか、そのこと自体を選択しなおせばよいのです。電力源としてその時点で何が考えられるかとの兼ね合いも考慮に入れて選択するべきです。

 これが大筋の方向性だと思います。

 もちろん、今日明日どうする?という問題は別問題で、現在ある状況との兼ね合いで考えていくしかないのですが、私たちが進むべき大筋の方向性はちゃんと見定めていなければならない、と思います。
 

橋下徹氏を応援します! [くらしと安全(交通事故その他)]

  橋下大阪府知事は、弁護士の間では、かなり不人気です。はっきり言って。

1 今まで、光市母子殺害事件で弁護団を相手にする懲戒請求を煽るなどしたことについては、賛成しません。同弁護団の方針に文句があるにせよ何にせよ、懲戒制度の使い方を間違っているし、何も知らない国民を変な方に誘導したこと、そして、それによる悪影響が大きすぎたからです。

2 また、最近の、国歌斉唱に関する条例を強引に成立させたことも賛成しません。今、日本中が大変なこの時期に、ちょっとでも思いやりを持ち合おうというこの時期に、(デリケートな人の心をあたかも「日教組教員の反日教育姿勢」と決めつけるかのように)そこまで国歌斉唱時の起立云々に力こぶを入れることか、と思います。

3 そして、そもそも、伝統的な弁護士像からするならば、依頼者のために、あるいは社会的正義のため、特に、助けの得られにくい弱者のため、パフォーマンスよりも地道に活動する、というのが尊いことだから、橋下的在り方は好ましくないとされてきた。

 私としては、1,2は実に良くない、と思っています。
 でも、3の点は、確かに当たっているけど、そうとばかりも?と少し思います。

 私自身は、昔はミーハーでしたが、今は、基本的に、実力以上に有名になったりはしたくないし、マスコミに注目されたりもしたくない、私は私のしたいことを邪魔されない方が大事だと思っていますので、橋下氏のようにテレビで活躍したりはしないし、そもそも出来ないでしょう。

 ですが、橋下氏の在り方は、一種の特殊能力です。
 サービス精神が旺盛であるが為に、光市母子殺害懲戒請求扇動事件(事件名、長っ・・・)のようなことを、番組の「空気」に合わせてやってしまったりします。
 しかし、橋下氏のサービス精神や、行動力、突破力は、大きさとして言えば、大きいです。

 かつ、かの新型インフルのとき、学校閉鎖などが相次ぎ、たった1人で田舎の河川敷を歩くおばさんでさえマスクをしている戒厳令のような世の中の時、敢然と、
「このままでは大阪の都市機能が麻痺してしまう。早く、日常通りに。」
と橋下氏が言い、それに続いて他の首長が同じことを言い出す、ということがありました。
 このときの橋下氏の、本当の意味の責任感と行動力、あるいは勇気について、私は見直しましたし、本当にありがたいと思っていました。

 その後も橋下氏については、見直したり、落胆したり、の連続です。

 しかし、今回は橋下氏を心から応援します。

 
 脱原発と自然エネルギーへの転換。  このことを、関西電力管内で一番電力を消費しているはずの大阪府民と共に考え、一緒に実現する。

 これは、橋下氏が知事になるときに言った「子どもが笑う」世作りそのものでしょう。

 
 そもそも


大阪の人々の知恵の力は実はものすごく大きいのだと私は思っています。


 そうです。

 「脱原発」は、もはや、政治的左派のスローガンではありません。これから私たちが進まなければならない、進まざるを得ない道そのものです。(※私は「左派」に分類されても、「右派」に分類されても一向に構いません。)

 河野太郎氏(自民)も、核燃料サイクルの無茶(これは、原発政策の行き詰まりそのものです)をしっかり指摘しています。

 ソフトバンクの孫正義氏も、動き出しました。

 何より、アメリカではビジネスとして、「原発」はとうに見捨てられています。普通に「もうからない」ことが判明しています。


 光市事件も、「君が代」のことも、全て別にして、この一点については(註 当初の「この一点で」から訂正します)、私は橋下氏を応援したいと思います。
 手始めに、このブログ記事をアップし、府庁HPにメッセージを送ってみます。

 
 橋下氏のもっている精力、才能を、この大問題にこそ注力していただきたい、と思います。


 きっと元々の私と同じく、橋下氏を「いけ好かない」と思っていた人も、今は、あえて応援する声を上げてみては?と思います。

脱原発 と 私が「はたらく」こと [くらしと安全(交通事故その他)]

 私の考えは「反原発」というのとは違うと思います。
 科学技術そのものに、良いも悪いもないと思うから。軍事利用も出来るし、平和利用も出来る。
 原子力エネルギーをどのように管理するかというテーマを、科学として研究し続けることには決して反対ではない。

 私は、3月11日以前に、例えばアンケートなどで原発が増えることへの賛成・反対を問われたら「反対」と答えたでしょうが、とはいえ、「プルサーマル問題」も全く何のことか知らず、原発の住民訴訟に関わったこともなく(内容も知らず)、住民運動的なものに加わったことも支援したこともなく、原発が作った電気を消費していましたし、「節電」に心を配ったこともありませんでした。
 なので、「反原発」的なことも「脱原発」的なことも、自分の行動としては全くとったことがありませんでした。

 しかし、現状起こっていること、また、3月11日以降今までに多くの国民の前に初めて明らかになってきたことからして、現実の暮らしを考えたとき、「脱原発」を強く望みますし、今私が見聞する情報(現在の多様なエネルギー技術の進歩、諸外国の状況)から考えると、それは可能なことであるように思います。

 「原子力なしではやっていけない」というのは、意外と安直にそう言う人がいるけれど、これは「(原子力なしでやっていくことのあらゆる)可能性を否定すること」であって、これこそ簡単に言えることではないはずです。
 ここのところ、一番大事だと思います。 
 まして、「学がある、知識がある」ということで、何らかの社会的地位にある人ならば、なおさら、「原子力なしではやっていけない」と言うにはよっぽどの確証がなければ言ってはならない。論理的に「可能性の否定」であることともあるし、事が事だけに、という人道的な意味があります。
 
 「明日からすぐに日本の全原子炉を停止する」ことはさすがに難しかったり、それによるマイナスが大きすぎるかも知れませんが、長期的なプランの下で、色んな方面で知恵を絞って、「脱原発」方向をとってゆくことは、多くの人が合意できるのではないか、と思います。

 省エネそのものについて私は門外漢です。それでも一生懸命考えて行動したいと思います。

 私の仕事としては、関わる人にかかっている負担を減らすこと、「はたをらくにする」ことを心がけたいと思います。
 よくコメントくださる心如さんのブログで「地球に優しく、の前に、人に優しく」という文章がありました。
 本当にその通りだと思いました。
 
 人が「無理しすぎ」の在り方、いや、人が「無理させられすぎ」の在り方というべきか。(組織の圧力で窮屈な思い、違法な長時間労働、形式的で無駄な報告書の山、などのイメージ)

 そういう要因を取り除き、その人その人が、本当に心からやりたいことをやって、人生を楽しめる状態になる、そのことのお手伝いということを、これからも一層、自分の仕事のコンセプトにしたいと思います。

 抽象的で何のことか分かりにくいかも知れませんが、例えば、ごくありふれた例で言えば、

Aさんが、憎きBさんとの間の紛争で、日々頭を悩まされているとき、

私がAさんに対して、

「Bさんとの紛争についての(常識的にみて)妥当な解決とはどのあたりか」

を示すとか、そういうことのほかに、

「Bさんとの紛争を続けることのコストはどれほどのものか」
「Bさんとの紛争を戦うことの意味はどういうものがあるのか」
「Aさんの人生全般の課題と見比べたときの、Bさんの紛争との紛争の位置づけ」

というあたりを、Aさんの話をよくききながらも、私の目から客観的に見て整理して差し上げる、というようなことです。

 「がんばる」弁護士活動というより「楽になる」弁護士活動です。(とはいえ、例えば、事故で重度の後遺症を残してしまった事件など、その人の一生に関わる問題などは、短期的にはきっちり「がんばる」ことが長期的に「楽になる」と予測できることもあり、そのときは、そのように説明します。)

 で、省エネや脱原発にどう繋がるか、ということを説明するのには時間がかかるので、それはいずれ、として、ともかくも、人にとっての

(その人が欲しない)無理、無茶、無駄を取り除く

ことを、私の日常出来ることとして、やっていきたいです。
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